ある友人に捧ぐ ー津久井やまゆり園事件を受けー (タウンニュース紙上企画第4回)
その友人との付き合った期間は,決して長い間ではありませんでした。
話が出来たわけではなく,表情を読み取ることも難しいものがありました。
ですが,少なくとも拒絶されたわけではないように感じられました。
その後,その友人を支える人達や取り巻く状況に関わっていく中で,様々な葛藤や対話が生まれました。
そのような出来事を通じ,その友人の存在が立体的に感じられてきたその矢先の出来事でした。
その朝,寝ぼけた耳に飛び込んできたニュースに,思わず耳を疑いました。
福祉施設に男が侵入し,多くの入居者を殺害したという知らせでした。
事件が起きたその福祉施設には,知的な障害を持つ方が多数入居されていました。
障害を持つ者の中でも,とりわけ障害としての度合いが重いとされる者が入ることが多い施設です。
続報が入るにつれ,さらに信じ難い情報が次々に判明しました。
犯人がその施設の元職員であったこと,入所者のうち重度の障害を持つ人達を狙っての犯行であったこと,
自分の行為が正しいと信じている確信犯らしいということ等々…
なぜ,犯人のような,障害を持つ人に対する見方が生まれてきたのでしょうか。
障害を持つ人の困難についての捉え方として,2つの考え方が示されています。
一つは,「障害」を,障害を持って生まれた,もしくは障害を持ってしまったその人個人の問題として解決すべきという考え方です。
このような,障害についての問題を個人に還元する考え方を“個人モデル”と呼びます。
個人モデルによれば,障害によって生じる困難の解消は本人の努力によってなされるべきであり,方法としても医療的な方法によるべきということになります。
もう一つには,「障害」は,ひとり障害を持っている人のみの問題ではなく,障害を持っている人を抑圧・排除する社会環境の問題であるという考え方です。
これを“社会モデル”と呼びます。
社会モデルからは,障害を持っている人が社会生活に参加するのを困難なものにしているのは,障害を持っていない人のみを前提に構築されている社会にも問題があり,それを改善すべきということになります。
社会モデルは,障害者,特に身体障害者の不利益の解消に大きく寄与しました。
例えば,足が不自由な人が,車椅子で街中を自由に移動できないのは,道路や建物に段差が多く存在するからであり,そのような段差を無くすことが必要だという“バリアフリー”もこのような社会モデルを基礎としています。
これにより,自己決定に基づくノーマライゼーションの理念(市民権も含む生活のあらゆる場面において,可能な限り他の人々と同等もしくはそれに近い立場に置かれるべきこと)が実現することになります。
もっとも,社会モデルも,精神障害者や知的障害者,とりわけ意思疎通に困難をきたす重度の知的障害者においては,あまりうまく機能しているとはいえません。
つまり,社会にある障壁を取り払えば,「できない」状態にあるものが「できる」ようになり,それにより自己決定に基づく行動ができる,というのが社会モデルが想定している流れですが,
そもそも自己決定できる能力に乏しい場合,このようなアプローチをすることの意義があるのかという疑念が生まれることになります。
このような疑念に対しては,自己決定をするということは,結局はそれによってQOL(Quality of Life:生活の質)が向上することから望ましいということであり,
QOLの向上ということが重要であるという考え方が生まれました。
そのためには,重度の知的障害者の場合であっても,QOLを図るため,社会の側が整備されている必要があります。
QOLを高めるためには,重度の知的障害者であると,施設の外で生活をしても多くの制約が存在しますから,むしろ福祉施設を充実させることが有用になってくるでしょう。
そして,当然,本人を支えてくれる親や親族,施設の職員らの力添えが必要になってきます。
また,そのような社会の側の整備の一つとして,自身だけでは法律行為等をすることが難しい場合,その手助けをする制度として,後見という制度が用意されています。
これは,後見人として裁判所に選任された者が本人に代わって法律行為を行ったりするという制度です。
このようにして財産の散逸を防いだり,身の上の手続きをすることにより,本人の利益を守り,QOLを高めることに役立つことになります。
そして,社会にはびこる障害者に対する劣ったものである等の差別的な感情を払拭し,支援すべき仲間であり友人であると思う人が増えること,
これこそが今回の事件によって浮かび上がってきた課題であり,究極の社会的な障壁の打破であると考えます。
“個人モデル”においては,正常な人間というものが観念され,それに合わない者は医療で治療するというのが基本的なモデルとなります。
かかる正常な人間という考え方は,障害者を正常でない劣った者として見なすものであり,そのような考え方からは,社会的コスト削減のためには,そのような劣った者は排除すべきであるという考え方(ナチスドイツでは優生政策として,障害者を安楽死させていました。)はすぐそこです。
今回の犯人は,このような考え方をもとに行っている可能性があり,そして,インターネット等の市井の言論では,このような考え方に共感する者もあるのです。
これは,自己責任が過剰に喧伝され,不幸を個人のみ帰責するような我が国のを社会風潮に合致するものでありますが,極めて危険なものであるといえます。
突然,交通事故に遭ったりなど,誰もがこのような障害を持つ境遇に陥る可能性があるということに想像力を働かせるべきです。
今回の事件をきっかけに,障害についてあまり考えたことのない人々が,障害者の問題について深く考え,現状打破に向けて行動するようになることが,今回お亡くなりになった方への何よりの弔いになると思います。
事件によって犠牲になった方々に心からご冥福を申し上げ,被害に遭われた皆様と支援者の方々に一日も早い平穏が訪れることを心より願っております。
[参照文献]
石川准,長瀬修編著「障害学への招待」
田中耕一郎「社会モデルは <知的障害> を包摂し得たか」障害学研究3巻
星加良司「『障害の社会モデル』再考」ソシオロゴス27巻
古屋健・三谷榎「知的障害を持つ人の自己決定」名古屋女子大学紀要人文・社会編50巻